まちの背中に設けられた太閤下水

大阪には大川や堀川の他に、400年も前に太閤秀吉によって作られた水路が船場を中心に残され、いまも使われている。「太閤下水」と呼ばれるこの水路は、単に水を流すだけでなく、大阪の街の姿に昔も今も影響を与え続けている。
秀吉は42間(約76m)四方の区画中央に東西に通る水路を設けたため、東西に延びる町が自然にできた。大正から昭和にかけて、堺筋や御堂筋が造られるまでは、平野町など東西の通りが大阪のメインストリートであった。
(写真:大阪市都市環境局「大阪の下水道26」より)
浮き世小路

今橋と高麗橋の町丁界を東西に通る通称「浮き世小路」は、太閤下水を埋めた跡と言われている。秀吉が作った水路はその姿を路地に変え、船場では数少ない静かで落ち着いた空間を生みだしている。
現在も使われている太閤下水

明治27年の下水道改良事業では市内約120kmの水路が対象となり、近代下水道の基礎となった。現在でも中央区・西区で約20kmの太閤下水が使われており、南大江小学校では石垣などかつての姿を見ることが出来る。
(写真:大阪市都市環境局「大阪の下水道No.26」より)
暗渠化された太閤下水

永らく開渠であった太閤下水は、明治27年以降、大阪最初の下水道改良事業のため底や石垣はコンクリートやモルタルで固められ、さらに石板の蓋をされて、ついに人々の目の前から姿を消した。
(写真:財団法人 大阪市都市協会「写真で見る大阪市100年」より)
太閤下水 かつての姿

太閤下水は通常一尺〜四尺(30cm〜1.2m)の幅であったが、大きなものは二間(3.6m)に及ぶものもあったという。素堀りしたあと、間知石または栗石で石垣を組み、漆喰がほどこされていた。
(写真:財団法人 大阪市都市協会「写真で見る大阪市100年」より)
posted by Unknown Soldier at 01:00|
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水都大阪展
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