
昨日からここに座り続けている。
個人的な問題だけではなかった。
社会全体のどうにもならない状況が横たわっていた。しかし、ここはそんな状況を感じない空間と思っていた。歴史が刻み込まれた石畳・コウラン(ライオンもいる)・街路燈、中州にはバラ園や中央公会堂と河川の創りだした広がりのある空間と育まれた歴史性は、周りに控える現代建築群の
圧迫感を見事に和らげていると私は感じていたからである。だから私は、今の圧迫感からは逃れるべくここに座り込んだのである。しかしここは、猛烈な
孤独と無力感を際立たせる場所であったことを逆に私に知らしめたのである。
今を結ぶ空間手段としての橋の往来は淡々と過ぎ去り、豊かな過去の歴史性やゆったりとした広がりは何もしない点としての人間を浮き上がらせた。すると逆に否定的な言葉が前向きな問掛けに変わった。「
どないしょう…か」人は行動と
活動自体に
希望を見出すものなのかもしれないという考え方が…